少年愛小説ノート:武田肇『半ズボンの神話』『稚児のメルヘン』
20世紀後半に花を開いた日本の様々なゲイ雑誌の中、『薔薇族』は「少年愛」のテーマを比較的に避諱なく扱っているものとして知られている。この雑誌のごく初期だった1970年代には、特にローティーンゲイ関連の特集が定期的に組まれ、高○生の当事者(実証不可能だが)を含む寄稿者からの小説やエッセイが掲載された。号を重ねると、頻繁に執筆する作家も現れる。武田肇(別名義含む)はその中で特に活躍した人物だった。『薔薇族』版元の第二書房から2冊も小説集が出版されたことからも、この人が本誌における少年愛作品の重要なプレイヤーであることがわかる。
武田肇は詩人として様々な場面で活躍していたが、彼だけの着目する研究があまりなく、文学史的な位置付けがよくわからない。しかし、『半ズボンの神話』『稚児のメルヘン』というこの2冊の小説集は、間違いなくその業績から外せないものだろう。ここまで露骨に「少年」のエロティシズムを描く小説はそもそも日本近代文学ではあまり前例がないし、かといってポルノのレベルを超えて、どちらも文学的で象徴的な物語にもなっている。
エロというか、ポルノは、読者の体に直接働きかけないといけない。抽象さは読者に脳を使うことを要請する。エロ同人誌と、稲垣足穂の作品。どちらも面白いけど、全然違うものだと理解している。つまり前者は下半身で読むもので、後者は上半身で読むものだ(難しくて読めないけれど)しかし、武田肇のこの2冊の小説を読むと、両者がある形で接合可能かもしれない、と感じてしまう。その意味で面白いが、どんな姿勢で読むべきかなかなk掴めなかった。
『半ズボンの神話』
薔薇族関係者の記事とかインタビューを読むと、少年愛者は少年の象徴として半ズボンに愛着を抱いているとの記述をよく見かける。ショタという言葉の語源となる「鉄人28号」の金田正太郎も半ズボンを着用していることを考えると、この昭和の「少年愛」を代表する記号は、現代のショタ文化にも影響を及ぼしている。そんな「少年=半ズボン」の等式を、武田のこの作品に遡ることができる、と言いたくなる。
第二書房から出版された一作目のこの作品は、五人の少年の物語を中心に展開される連作小説集だ。所々に物語世界の外部に位置する語り手が現れるので、エッセイ風の側面もある。少年愛というのは少年の「死」によって成就するなど暗めのテイストではあるが、人物設定のバラエティも多く楽しめた。
「はじめに」には自らの「悪夢のような快楽」を少年に押し付けて別れを決定的にした人物が登場し、少年愛者は「名状しがたい未完の愛」と謳う。夢と現実の置換することでしか成し遂げられない矛盾に直面する少年愛者の閉鎖的な快楽が印象に残る。他方、最後の章では、年少の少年に恋慕の情を抱く年上の少年が、年少の少年の死と「おじさん」との情事を経験し、同世代の少年におじさんから教わったことを伝えるという、ローティーンゲイの生き残りも描かれている。二人の少年が連れ添って「古い公衆便所」に向かうシーンは絶妙に美しい。
あの時「少年愛」という言葉が少なくともゲイの世界ではどのような意味の幅を持っていたのかを、教えてくれる一冊でした。もちろんエロもある。現代基準では抜けないかもしれないが。
『稚児のメルヘン』
同社から出版された二作目。こちらも、複数のストーリーラインによって展開される連作集だが、前作よりテーマがさらに集中する。「父子相姦」である。
メインとなる二人の少年の物語は、どちらも実父と性関係を持つに至るまでの道行を描いている。父の愛人になりすます少年と、父が描く絵のモデルになる少年。二つの物語に見られるのは、息子が父の権威や不可侵性を少しずつ崩していく快楽であった。その意味で本作は前作よりも哲学的なテーマを感じさせるが、性描写もさらに露骨になっているのがすごいところ。小説を開いて数ページで現代でも通用するど変態なシチュエーションが読めるぞ……
少年愛をめぐって、「父」が重要なテーマだということを気づかせてくれる作品だ。少年が母から父を奪い返す話なので、一種の逆のエディプスコンプレクスを通して、少年がその時の性のルールを揺がす場面が描かれているわけだ。少年愛といって、変態おじさんが誰かに性欲を発散するだけという側面ももちろん強いが、本作はおじさんたちを翻弄する、純粋で恐ろしい少年たちがフォーカスされている。 ただ、結局少年たちは死ななければならないという点は、前作から変わらないところだね。この点が気に入らない。
「少年なんて、この世にいる筈がないのだ」という印象的なフレーズを『薔薇族』に書いた作者だから、もちろん全作品がフィクションであることは言うまでもない。しかし、ゲイ文化に近いからか、この2冊の少年愛小説は、ある意味エロ同人よりも、稲垣足穂や長野まゆみの少年愛小説よりも、現実味のあるものだと僕は感じた。これをどのように受け止めるべきかはわからない。「少年なんて、この世にいる筈がないのだ」。そう、だから文学で書いて、絵で描いていくのだ。そんなのリアルにいるはずがない。ただ、少なくとも、作品を作り、作品を読んでいる我々がリアルにいる。これが紛れもない現実なんだ。
ゲイ向けゲームのショタキャラがすごい
スケベ好きなショタコンだけど、実はこれまであまりゲイ向けゲームをやってこなかった。別に避けているわけでもない。美少女ゲームのショタキャラを発掘する青春の日々もあった。でも、なぜか自然に視野に入ってこなかった。
ショタって、とても不思議なジャンルだね。教科書的に見て、多分少女漫画、男性向けエロ、BLなど様々なジャンルの流れを汲んでいると思うが、ゲイアートとはどういう関係はだったのだろうか。『薔薇族』から続いてきている少年愛コンテンツはあるけれど、それが現代のオタク文化に向けて、どんな経路を辿って繋がるのか。今でもショタとゲイジャンルを跨って活躍する絵師さんがたくさんいらっしゃるから、このあたりの歴史はとても興味深い。
すみません、雑談がすぎた……
最近はとあるソシャゲのコラボ企画で、ゲイ向けコンテンツを制作するUnderground Campaignさんの「家、建てます!」(2004)というゲームをようやく知って、同サークルのゲームをいくつかプレイしてみた。なんと少年キャラが攻略可能なゲームも複数ある!このジャンル独特のリアリティ描写にどハマりしたので、紹介したい。
(リンク先は18禁コンテンツなのでご注意)
「家、建てます!」(2004)
杉宮拓
とにかく健気で可愛すぎた。
正直最後の場面までこの子が攻略可能だと信じていなかったので、その分一線を超えた時はガチで昂った。あれのシーン以外にも日常描写がしっかりあり、CGも付いているので、彼だけのためにこのゲームをやっても損はないはず。
そもそも「家建て」は古典的な名作で、ゲイをめぐる様々な悩みを描くシナリオ自体もクオリティが高い。そんなリアリティのある世界の片隅に、少年キャラを攻略できるのは、正直言って幸せだった。この可能世界を描いてくれてありがとう(泣。
「淫楽の供物」(2022)
シロウ
えっちな島。そしてそこに住まう少年。何も起こらないはずもなk(ry
まず鉱夫の設定が萌え萌えだし、純真さが醸し出す色気と残酷さもよく描き出されている。同じく大男ばかりの空間に一人だけの少年キャラなので、色んな意味で大活躍する。シナリオは単純と言えば単純だけど、セクマイのトラウマをめぐる話でまあまあ楽しめた。
システムは現代のゲームらしくとても快適だが、多少作業ゲっぽいところもある。
「俺と魔法の恋人」(2004)
生意気で楽しい後輩キャラ。
主人公がいい感じの大男4人と突然同居を始める話なので、サブキャラっぽいこの子が攻略対象であるかどうか、最初はわからなかった。二周目でようやくエンディングに辿り着いた。4年とのイチャイチャを嫉妬する後輩の姿を楽しめる。ただマセガキだから、あまり幼さとか少年っぽさを全面的に打ち出していない感じも…?藤本郷氏の珍しい(?)少年キャラ。
「家建て」と似たようなセーブシステムで、現代からするとあまり快適ではないかも。
現在は無料でダウンロードできる。
振り返ってみると、この三つのゲームは共になんらかの「期限」がある物語設定になっている(家が建ったら帰る・島からの脱出・召喚した男を帰すのが目的)。少年キャラが一際輝くのも、期限があるからなので、ショタコン的にこれらの設定が刺さったのかもね。
結局、周りはみんな大人だし、いつか少年も大人になる。ゲイ向けゲームに登場する少年の独特なリアリティは、結局そこにあるだろうか。純粋に「少年」と「男」の関係が楽しめるので、色々とスケベ以外のことも考えてしまう。いずれにしても、「家建て」をクリアした時に、心に残ったのはエロだけじゃなかったことを、大切にしていきたい。
これからUnderground Campaignさんの新作に登場する少年キャラたちに期待して課金するぞ。